世界での競技人口が5億人を超えている人気スポーツのバレーボール。
日本でもその人気ぶりの高さは、十分にうかがえます。
バレーボールはアメリカで誕生したスポーツですが、その後どのような経緯を辿り、日本に普及したのでしょうか?
何をきっかけに日本にバレーボールが伝わったのか?気になったので調べてみました。
今回は「バレーボールを日本に伝えた人は一体誰なのか?」キーマンに焦点をあてて、みていきたいと思います。
結論から先に言ってしまうと、それは大森兵蔵という人物です。
では早速本文へ移りましょう。
[スポンサーリンク]バレーボールを日本に伝えた人
日本にバレーボールが伝わったのは、1908(明治41)年と言われています。
マサチューセッツ州スプリングフィールド国際YMCAトレーニングスクールで、バレーボールを学んだ大森兵蔵という人物が、バレーボール・バスケットボールを広めようと試みたのが、そのきっかけです。
大森兵蔵は、社会福祉に非常に熱心なことで知られていて、スポーツの素晴らしさ、楽しさを日本に伝えたい、という思いから、普及活動に励んだという経緯があります。
ですが、その思いはなかなか実らず、バレーボール・バスケットボール、どちらのスポーツも国民に浸透するまでにはかなりの時間を要したようです(当時の日本の不況が影響していると考えられています)。
その5年後の1913年(大正2年)には、同氏は肺結核が悪化したことにより36歳の若さで死去してしまうのですが、同年、東京YMCAの体育主事に就任した、フランクリン・ブラウンが、大森兵蔵の後を継ぎバレーボールの普及を進めました。
フランクリン・ブラウンはバレーボールに驚異的な熱意で取り組み、フィリピン式のルールを日本に広めることに成功しました。
フィリピン式のバレーボールのルールとは、3回以内にボールを相手コートに返すというもので、これにより、日本のバレーボールは攻撃的なプレースタイルに変わり、人気に火がつき普及に至りました。
大森兵蔵やフランクリン・ブラウンの活動も、バレーボールの普及には欠かせませんでしたが、その後の日本選手のバレーボールでの活躍も大きな影響を与えていると言えるでしょう。
[スポンサーリンク]まとめ
バレーボールを日本に伝えた人をみてきました。
バレーボールは当時の時代背景も影響して、普及するまでの時間を要したわけですが、今では国民にとって身近なスポーツになっています。
日本代表も世界で通用する力を身に付けています。
歴史を知ることで、またバレーボールの見方が変わってくるかもしれません。